清岡幸道インタビュー

清岡さんは東京生まれ。父が新聞記者だったため、子供時代は北海道内を移り住んだが、小学2年生までを過ごした旭川郊外での暮らしが一番印象に残っているという。

「家から地平線が見えるような何もないところでしたね。その頃の思い出というと、よく友達何人かと地平線に向かって歩いて行って帰ってくる。ただそれだけなんですけど、そんな風に遊んだことが何故か印象に残っています。」

その後横浜に移り、中学、高校は体育会系でラグビーに明け暮れた。大学進学に関心はなかったが、大阪芸大に入った幼馴染から大学生活の楽しさを聞かされて心が動き同じ大学へ。興味を持てそうに思えた陶芸学科を選んだ。だが、入ってはみたもののそこで教えられていたオブジェとしての陶芸には気持ちが入らなかったそうだ。大学時代はアルバイトや友人達とキャンプに行ったりして学生生活を送り、卒業後は信楽の傘立てなどを作る陶磁器メーカーに入社した。

仕事の傍ら地元の造形集団に誘われて、作品を作ったこともあったが、その頃はまだ陶芸家になる気持ちは全くなかったという。転機は信楽に住んで数年が経った頃に訪れた。当時通っていたバーのオーナーから、レストランのために器を作ってくれないかと頼まれたのだ。

「自由にやっていいからと言われたんですけど、その頃はうつわのことってほとんど分かってなかったので、色々調べながら作ったんです。少し造形っぽいものでしたね。そしたら想像以上に評判がよくて。それまで陶芸で褒められたことなんてなかったし、自分の作ったものを誰かが料理に使ってくれることもなかった。それまで味わったことのない感覚で、あんなに嬉しかったことはなかったですね。」

うつわを作りたいという気持ちが湧いてきた清岡さんは、食器を作る製陶所に転職し、昼間は会社で刷毛目などの同じ器をたくさん作り、仕事が終わると自分の作業場でろくろを挽いた。10年続けた仕事だったが、次第に違和感を感じるようになったという。

「仕事で求められるものと、自分がいいなと思うものの違いが大きくなっていったんですね。作っていたものは量産品としてのうつわなので、求められるのは当然同じような仕上がりのものなんですが、僕にはB品として弾かれてしまう他とは違う釉薬の流れ方だったり景色があるものの方がいいなと思えて。」

そうした違和感が、自分の好みを意識するきっかけになった。人があまり手を出さないものや、これまで見たことのないものへの関心。それは子供の頃からあった冒険心なのかもしれないと清岡さんは言う。その後独立の道を選んだ清岡さんだったが、窯変による景色や色味が独特な作品は、なかなか理解されなかったそうだ。そこで多治見など他の場所に作品を持っていって見てもらっているうちに次第に理解者が増えていった。ある時、人から勧められ松本クラフトフェアに初めて参加したところ、初日で完売してしまう。発表の場所が違えば、自分のスタイルを受け入れてくれる人がこんなにいるのだと驚いた。その後、他のクラフトフェアにも参加するようになり、ギャラリーでの取り扱いも増え、現在に至っている。

清岡さんの独特のスタイルはどのようにできてきたのかとの問いには、こう答えてくれた。

「若い頃、裏原宿にあったクリストファー・ネメスというブランドの世界観だったり、ジム・ジャームッシュの映画だったり、あとピアソラとかトム・ウエイツとかの音楽が好きだったんですけど、うつわには自分の感覚にしっくりくるものってなかなか無いなと思っていました。僕の中ではファッションも、映画も、音楽も、うつわもみんなつながっていたんですけど、その頃ってまだ作家のうつわをそういう風に捉える人は少なかったんだろうと思います。それで自分はこういうのが欲しいなというものを作り始めたんです。例えば、昔見た映画に出てきたマグカップなんかをなんとなく覚えていて、それをこういう風に変えたらもっとかっこいいだろうなって作ってみたり。多分僕らの世代ってそういう風にものを作ってきたんじゃないかなと思います。」

地平線に向かって歩いた少年の日から、まだ見ぬ景色への憧れを持ち続けた清岡さん。うつわ作家になってからも、土と釉薬が織りなす表情の中に、誰も見たことのない景色を求めてきた。最後に現在のことを聞いた。

「自分の中でちょうどいい感じっていうのが、少しずつ変わってきている気がします。以前は窯変のちょっとおどろおどろしい感じが面白いと思って気に入ってたいたんですけど、最近は少し表情が抑え目のものがいいなと思うようになってきました。料理を盛った時に、器が主張しすぎることなく、お互いに引き立たせるような器というか。個展でもいくつかの器が飛び抜けたものよりは、全体が調和した感じを受けるようなのがいいなと思っています。」


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